一旦、最終回シリーズその3「特急がなくなり、衰退し続ける新井駅」

前回は、「二本木駅」の話でした。

そもそも『信越本線』の「長野~直江津間」は、特急・急行があって存在価値があるのだと・・・「特急あさま」しかり「特急白山」しかり「急行能登」・・・

自分が、東京へ行くときには新井駅から特急あさまに乗って、上野駅までいくのがデフォでした。
特急白山は乗った事はありませんでした。
1997年に長野新幹線開業で、「長野~直江津間」が途切れてしまいました。つまり東京へ行くには、長野まで普通電車か「快速信越リレー妙高」(当時、現在は「妙高号」)しかなくなりました。現在は普通電車しかなくなりましたが・・・

それから高速道路の整備で、直通列車が不要になりシュプール号がなくなっていきました。
上越線を通る「シーハイル号」しか残っていない)

だれが、北陸新幹線を全線開通を推進したのだろう?結局、妙高高原の観光地(実際は鉄道→車に変わった)や旧新井市街の地盤沈下化、高田・直江津駅前の店は閉店、シャッター街化しています。ただ皮肉な事にその閉店した店が「北陸新幹線早期全線開通支持者」だったのが笑えない話です。
以前からストロー化現象で地方都市は寂れると言われているのに「新幹線が出来れば、街が活性化する」と・・・馬鹿だ!!あほだ!!だから潰れるのだと・・・

この話は散々やってきたので、ここで終了。

その極めつけが「新井駅」です。昔は活気があったのですが・・・
ダイセル化学新井工場の専用線があったのですが、2008年3月で貨物列車が廃止されました。
詳しくはウィキの「新井駅」で・・・



新井駅です(これだけ2008年8月撮影)↓
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改札を出て、1番線ホームの長野側から撮影しました(この写真以降、2007年11月の撮影)↓
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そこから撮影した2・3番線ホームです。(この中線は、貨物列車の入替に使っていました。幼い頃はよく貨物列車を見ました)

先端で撮影している時に右側の線路がはずされているのを見ました(父の話だと昔近くにターンテーブルがどっかにあったとか・・・)↓
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振り返ると、すぐに仕切られていました。

そこを過ぎると、現在は駐車場になっているところになります。
わずかながら、かつて線路があった痕跡がかろうじて見れます↓
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この近くに日本通運の倉庫があり、かつてはコンテナ基地としてここで貨物列車への積み替えをしていました。
(それがなくなったのが、自分が小学生低学年の時だったので約30年前かな?)


そして、長野側から「特急あさま」ではなくて「妙高号」がやってきました(動画)↓

その姿、往年の「特急あさま」そのものです。

妙高号」を撮影して、新井駅をあとにします↓
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こうして、自分の中ではいろんな駅について、自分なりの解釈で説明しました。2010年現在の新井駅は、中線は残っていますが、ダイセル化学新井工場への専用線がはがされていました。これで貨物列車を見ることができなくなりました。


実家から数分歩いたところに踏切があります。昔は、そこでいろんな列車を見ました。印象に残ったのは貨物列車でしたが・・・・

このシリーズも次回で終わります。次回は駅でなく踏切になります。
次回「その4・幼い頃ここで列車を見た石塚踏切」に続きます。それでは・・・








        Written by 相沢 祐一(管理人)