『春の18きっぷ』2009年3月7~8日・その3「小浜線、東舞鶴・西舞鶴へ」
前回は、敦賀駅到着まででした。
そもそも舞鶴市とは・・・(以下、ウィキから転載)
②舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増した。そこで1943年(昭和18年)に海軍は東西両舞鶴市に合併を要請し、それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日に合併。新しい舞鶴市が誕生した。当時の人口は154,953人。
③城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化した。同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至った。1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議された。京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決した。
④市の中部には、東部(東舞鶴)と西部(西舞鶴)を分ける五老岳が峙えているため、市街地も東西で分かれて発展している。東舞鶴はかつての軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区である。一方、西舞鶴はかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区である。このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、(旧)舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っている。
・・・との事です。
「北近畿ビッグⅩネットワーク」と言うネーミングです↓
後ろですが・・・ショボイ・・・1編成を半分にして、中間車両を改造したな・・orz
(もうネーミングにふさわしい車両を導入しようよ。683系でいいから)
後ろですが・・・ショボイ・・・1編成を半分にして、中間車両を改造したな・・orz
(もうネーミングにふさわしい車両を導入しようよ。683系でいいから)
ここを通れば乗り換えできますが、今回は撮影のみです↓
駅前にはこの塔がありました↓
すぐ近くに昔ながらの商店街があります。(このもっと奥にもあります)
すぐ近くに昔ながらの商店街があります。(このもっと奥にもあります)
しばらく商店街を歩いていました。まあ、夜の10時頃だったのでほとんどの店は営業終了していました。
車内です↓
KTRの車両です。
KTRの車両です。
この車両から、お酒を飲みながら夜景を楽しむのが最高でした。
Written by てつ人28面相 |